岩野田小学校の校門右側に設置された実績浸水深標識をご存知ですか。昭和51年9月12日台風17号による豪雨で、岩野田も大きな被害を受けました。岩野田小学校は海抜23mに位置しますが、この標識が示す高さまで末洞川の水が溢れ出たということですね。
■関連情報
・岐阜県公式ホームページ 災害アーカイブ>9月12日豪雨災害(昭和51年)
■当時の災害状況
以下、岐阜県災害アーカイブに災害当時の生々しい状況が記録されていましたので、抜粋して掲載させて頂きました。
台風17号の影響で9月7日から断続的に降り続いた雨は、美濃地方の平野部を中心に集中豪雨となって、県内各地、特に岐阜・西濃地方で中小河川の氾らん、土砂崩れ、道路の寸断など、大きな被害をもたらしていた。
当時の岐阜日日新聞は、9日夕刊で正午現在の県内の被害状況を次のように報じている。「がけ崩れなどでけが人3、家屋全壊2、同半壊2、床上浸水653、床下浸水4,711戸、山崩れ61、道路損壊17か所。岐阜市内で最も浸水が激しい常盤地区では、約400戸の家屋が床上・床下浸水しており、さらに岩野田、早田地区でも200世帯が避難した」と報じ、すでに県都を中心に大きな被害が出ていたことが分かる。
12日午前5時、墨俣の水位は、7.4メートルと4回目のピークを迎え下流域の緊張は一気に高まった。安八町大森の決壊現場では、堤防のり面に不気味な亀裂が生じたため、住民が水防活動により、杭打ち作業を懸命に続けていた。
『安八町9・12豪雨災害誌』は当時の懸命の水防作業と決壊直前の不気味な現象を細かく記録している。「10時20〜25分、杭打ちは終わった。亀裂付近の北寄りの足場が柔らかくなり足が20センチほどめり込む状態だったが、のり面そのものは固く漏水は見られなかった。10時25〜26分、杭の下で立っていられないほど足下がグラグラ揺れ、地震のような振動が起こった。10時28分ごろ、草の根の切れる音が激しくなり、堤防に平行に強い揺れが起こった。地滑りというより、沈下した感じ」。堤防は未曾有の洪水に耐えきれず10時28分ごろ、約50メートルにわたって決壊した。