以下、岐阜県文化伝承課のホームページより(抜粋)
「宝暦治水工事の監督にあたったのは、高木家と笠松郡代青木次郎九郎であった。
内藤十左衛門は、多良陣屋高木新兵衛の家臣で、尾張梶原村から伊勢田代輪中にいたる二之手工区の桑名郡の五明村詰所に派遣されていた。その際、堤防の築造に不備を発見し、郡代青木次郎九郎にこの旨を報告しようと思っている間に工事が終了してしまった。最後の検査の時に、自分は勿論のこと、主人高木新兵衛にまで咎めが及ぶと考えて、その責任を一身に負って、宝暦4年(1754)4月22日に切腹した。墓石は高さ65cm、幅23cm、厚さ16cmの花崗岩に「本性義空居士」、側面に「宝暦四甲戌年四月廿二日」と刻まれている。」

画像は霊松院の参道入口に設置された案内板
所在地:岐阜市岩崎3ー15ー1 (霊松院)

小学生の頃から、このお寺に木曽三川の治水工事に関わった人のお墓があると聞いていましたが、サラリーマン人生も終盤をむかえた今、あらためて調べてみると、「当時はきっと辛いことがあったんやろなあ」と しみじみ読み返してしまいました。



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